また君に会いたいとか

日々の備忘録

母の入院のため実家に帰っていました。

 

 

こんにちは、トパーズです。

いつも読んでくださって、ありがとうございます。

 

 

9月に母が転んで骨折、入院したため

先月末まで高松の実家に帰っていました。

 

福岡に戻ったらイルミネーションが美しかった博多駅
photoAC

 

命に別状はないとのことで、

福岡での用事の段取りをつけしだい

急いで帰り、術前説明に何とか間に合いました。

 

 

「お父さんは家のことは何もできないから。」とか

「お父さんがお風呂で寝てるんじゃないか。」と

母がしきりに心配していたと看護師さんから聞き、

また、

「病院のランドリーサービスを利用しますか?」という電話を

まだ福岡にいる時に病院から受け、

(え、そんなレベル?)

と、父の何もできない有様に不安になりました。

病院での洗濯物がたまっていたのです。

 

 

私がいたら母も安心して入院していられるし、

退院してからのサポートもできるし

父も母も安心だろうと思って帰りました。

 

 

と、偉そうに書いていますが

母の手術が無事済んだと思ったら私がめまいでダウン。

老父に介抱してもらうというトホホなことに。

 

朝目が覚めたらめまいで起き上がれないということは

時々あるのですが

父に余計な心配をかけてしまって心苦しかったです。

 

 

そんな中でも、

介護申請をしたりケアマネージャーさんと打ち合わせをしたり

介護用品のレンタルや住宅改修の相談をしたりと、

普段しないようなことの連続や

年とった父との数十年ぶりの生活は

私にとって新鮮なことの連続でもありました。

 

今まで帰省しても長くて1週間くらいだったのが、

ほぼ2カ月も生活していたのは、初めてです。

正直に言うと、疲れました。

もっと手のかかる介護をしている人から笑われそうですが。

 

しかも入院中の母に「せん妄のような症状」が現れ、

私と父は言葉をなくしました。

この話は別の機会に書きます。

 

 

すっかり「実家サイクル」で日々の家事をこなし、

病院への洗濯物等の受け渡しや面会での往復、

空いた時間で高松ライフを満喫、

時々思い出したようにブログを書き、という生活。

 

 

しかし大変だったのは母が退院してからでした。

 

母は骨を傷めただけで持病もなく元気なので

家に帰ったとたん普通に動こうとします。

それまで病院で上げ膳据え膳で、

リハビリ以外はベッドでの生活だったので

本人も退屈だったのでしょうが、

疲れが出てまた転倒でもしたらと、ヒヤヒヤです。

 

入浴は介添えが要るにもかかわらず

自分でできると言って自分で入っている。

 

 

父も母も年をとってだんだん頑固になってきてるので

二人の不毛とも思えるやりとりを聞きながら

こっちまでイラっとなって

つい怒ってしまうことに。

 

あ、私も年とって頑固になってるんだと、

つい言い過ぎてしまったことを後で反省する毎日。

つい子供を叱ってしまい、後で反省していた昔の自分と

少しも変わってないやと気付いて、更に落ち込む毎日・・・

 

 

それでも何とか目途がついたので、

後ろ髪をひかれる思いで福岡に戻りましたが、

父も疲れてるんじゃないかとか、

母がまた無理をしてるんじゃないかとか、

心配が尽きません。

娘とはいえずっと離れて暮らしていた私に

父は父なりに気を遣ってくれてたと思います。

 

 

いつまでも福岡にいてはいけないんじゃないかとか

私が早く高松に住むようにしたほうがいいんじゃないかとか、

複雑な思いでマリンライナーに乗り込み、

でも新幹線が博多に着く頃にはもう

福岡での生活のことが頭を占めるようになり、

約2か月「高松の子」に戻っていた私は、

「福岡の人」となって博多駅に降り立ちました。

 

博多駅はクリスマスイルミネーションで綺麗でした。

汗だくで新幹線に飛び乗った日が嘘のような寒さ。

 

 

キンモクセイが満開だった頃

 

 

ツワブキの花が咲いた頃

 

 

カニシャボが蕾をつけた頃

 

 

サザンカの蕾も膨らんできた

 

 

2か月もの不在で各方面に多大な迷惑をかけ、

再び福岡での繁雑な日々が戻ってきました。

それでも夜中や明け方に目が覚めて、

ここが高松の家でないことに気付いたときの寂しさ。

 

大学で親元を離れてからこの年になった今でも

帰省の後はまだそんな寂しさに襲われます。

今回は長く高松にいたから

「福岡の人」に戻るにはもう少し時間がかかるかも。