スピッツのデビューアルバム『スピッツ』(1991年)の7曲目に収録されています。
☆若さゆえの苛立ちと葛藤
※あくまで私なりの解釈で、
これを強要するとか、他の解釈を否定する意図はありません。
【勝手に解釈】は、私の妄想のページと思ってください。
障害の多い「君」との関係に苦悩する歌ともとれます。
でもその解釈とは別に
「君」を「夢」や「本当の自分」として考えました。
歌詞を少しずつ見ていきます。
僕らが隣り合うこの世界は今も
けむたくて中には入れない
太陽は黄ばんでいた
「僕らが隣り合う世界」は「普通の世界」
ずっとけむたくて目を開けにくいし息もしにくい。
煙たい中で呼吸できる術(妥協・ズル・周囲と迎合できる)
を持つ人以外生きにくいのだ。
太陽まで色褪せて輝きを失っている。
まだ若く、純粋で無器用な僕は
そんなふうに感じているのでしょうか。
くるくる回るくる回る 空も大地も
始まりのチャイムなったらもう君に会えない
ふんづけられて また起きて 道ばたの花
ずっと見つめていたよ
それでも容赦なく月日は過ぎ、季節はめぐる。
世間に迎合していけばうまくいくかもしれないけど、
それは自分が本来望む姿ではない。
「始まりのチャイム」は、これから自分の「流れ」「生き方」が
大きく変わる、或いは変えるきっかけ。
ここでは、「別れ」ではないかと思います。
好きな人との別れだったり、夢や信念を手放すことだったり。
それは、周りとの軋轢に負けたり折れたりで、
本意ではないけど、そうせざるを得なかったような感じ。
でも、社会の中で生きていくためには
ある程度周りと折り合いをつけることも必要です。
自分の考えが子供じみているのか?
そんな葛藤に苦しんでいるのでしょう。
踏まれても花を咲かせ続ける「道ばたの花」(タンポポ)を
憧れと尊敬の念をもってずっと見ているのです。
逃げ出してつかまった最後の冒険
おデコに大きな傷をこさえて
自分の夢を貫きたいととった行動は
結局うまくいかなかった。
むしろルールからはみ出したとして烙印を押され
あらためて世間の荒波を痛感することになった。
真っ赤なセロファンごしに見た秘密の庭を
今も思い出してるよ
「秘密の庭」は思い描いてきた夢、とった行動。
でもそれは、このけむたい世界の常識からしたら
「受け入れられないこと」に見えただけ。
フィルターごしに見たのだから。
この「真っ赤なセロファンごし」という表現は、
「真っ赤な血の海」
(【勝手に解釈】:「ビー玉」(スピッツ) - また君に会いたいとか)
にも通じると思います。
赤く血塗られていたように見えていただけ。
「建て前」というフィルターで見ると
何でも「ダメ」になってしまうのです。
草野さんの歌詞には「血」や「ナイフ」等
物騒な言葉がわりと登場します。
インパクトのある言葉に「!」となりますが
その言葉の強い意味とは違う
別な意味が隠れてるように思います。
実際は気弱で虫も殺せない僕に、
血なまぐさい「殺生」は無縁でしょう。
強がっているだけで真意は対極にあると思います。
何かが解っても何も変わらない
立ったまま心はしゃがみこんで泣いていた
ふんづけられて また起きて 道ばたの花
ずっと見つめていたよ
そんなことが解ったところで
状況は何も変わらないだろう。
平気なふりしてきたけど
そんな事実と自分の無力さに愕然とした。
道ばたのタンポポの
踏まれても挫けない強さや意思が自分にあるだろうか?
どうかこのまま僕とここにいて欲しい
どうかこのまま僕とここにいて欲しい
ふんづけられて また起きて 道ばたの花
ずっと見つめていたよ
ずっと夢を追い続けたい
烙印を押されても自分を曲げたくない
要領よく周りに合わせていれば
なんとかうまくやっていけるだろう。
でもそうすると自分が自分でなくなりそうだ。
タンポポのように
叩かれても自分を貫き通す強い意志があるだろうか?
【歌の感想】
3拍子の軽やかなリズムだけど、ずっしりと心に響きます。
イントロからすでに思い響きがあり、
途中のインスト部分ではギターの音色が
何とも言えないやるせなさを奏でているように聴こえます。
歌詞や歌い方にも悔しさとか無念さを感じます。
ただこれも、あくまで私の感想で、
この歌がそういう感情を歌ったものだと解釈すれば、
そういう「セロファンごしに」聴くことになるので
他の音色もすべて自ずとそう聴こえてしまうというもんです。
そんなことを言うと、元も子もなくなってしまいますが・・・
若さゆえに独りよがりになり
周りが見えなくなることってありますよね。
でも、これから世間の荒波を渡っていくうえで
それは決して無駄なことではないと思います。
自分の考えや信念は持ち続けていたいですから。