また君に会いたいとか

日々の備忘録

香川県特産【小原紅早生(おばらべにわせ)】みかん すごく紅い!

 

 

こんにちは、トパーズです。

いつも読んでくださって、ありがとうございます。

 

 

今月に入って傷めた腰は

サポーターと、動き方に気を付けることで

痛みも少なくなってきて

痛み止めを服用することもなくなりました。

 

それでも、年末の諸々の用事は

いつものようにはできなくて、

まあ、それでもいいか、と割り切っています。

 

 

 

今月初めに実家から送られてきたみかんです。

娘にも。

もう既に食べ終わってますが、

とてもおいしかったです。

(この頃はまだ腰を傷めてなかったから

 何の動作も不自由なかったなぁ)← また愚痴ってしまう

 

 

聞き慣れない名前のみかんですが、

高松に帰省していたとき、

よくテレビのニュースで流れてたので、

その存在は知っていました。

 

 

箱を開けてびっくり、

真っ赤なんです。

 

ちょっとわかりにくい?

 

 

柿、普通のみかんと比較

 

 

普通のみかんと比較

 

 

皮をむくとこんな感じ

 

 

なぜ紅いか、というと、

以下、香川県HPより抜粋します。

 

昭和48年、坂出市のみかん農家「小原幸晴(おばらゆきはる)」氏のみかん園で栽培されていた「宮川早生(みやがわわせ)」という品種の中で、果皮が濃い紅色をしたみかんが発見されました。


枝(えだ)変わりという突然変異で生まれたみかんは、「小原紅早生」と命名され、香川県農業試験場府中果樹研究所などで調査を行い、平成5年10月に品種登録された香川県のオリジナル品種です。

 

国内で栽培する「みかん」約100品種の中で、果皮の色が最も紅いと言われている品種で、坂出市では別名「金時(きんとき)みかん」と呼ばれています。

 

糖度の高い小原紅早生には、カロテノイド色素の一つで、抗酸化作用のあるβ(ベータ)―クリプトキサンチンが多く含まれています。

 

なのだそうです。

 

今回初めて食べました。

 

すごく甘いです。

甘ったるい感じではなく、瑞々しい甘さ(伝わるかな?)

小粒なので、パクパク食べてしまって、

あっという間になくなりました。

 

 

香川県のHPにいい写真があったので

こちらの方がわかりやすいかも。

 

香川県HPより

 

高松のテレビではよく紹介されてたけど、

福岡ではほとんど流れてない感じです。

私も知らなかったし。

 

香川県でしか作られてないようなので

あまり出回ってないのかな?

 

 

と思いきや、HPにこんな記述も。

 

現在は、約90haが栽培され、650t程度の果実が、JA香川県を通じて県内及び京浜・京阪神市場を中心に出荷され、近年は東南アジアにも輸出されています。

 

 

もしこの名前の紅いみかんを目にしたら

ぜひ食べてみてください!

 

 

これからの年末年始、

みかんでビタミンを補給して

元気に乗り切りましょうね!

 

 

ぎっくり腰は突然に

 

 

こんにちは、トパーズです。

いつも読んでくださって、ありがとうございます。

 

 

 

不覚にも、いわゆる「ぎっくり腰」を患ってしまいました(泣)。

 

 

先日、ミシンを使おうと手に持ったとたん

腰がピキッとなって、しばらく動けませんでした。

 

本当に、「ピキッ!」という音が聞こえたんです。

 

あまりの痛みに、

何とか終業間際の整形外科へ。

母の骨折・手術・入院があったので

もしや自分も?と心配しましたが

幸い骨に異常はなく

サポーターと湿布薬と内服薬をもらって帰りました。

 

 

このミシン、結婚前に買ったもので、

とてつもなく重いんです。

 

当初は、ミシン用?なのか忘れたけど

キャスター付きの机のようなものに載せてしまっていて、

使うときは、

その棚を組み替えるとミシン台として使えるといった

今考えるとありがたいものがあったのだけど、

数回の引っ越しのうちに行方不明に。

 

最近はクローゼットの下にしまっていて、

使う時はそれを引っ張り出して、テーブルに載せるという

ものすごく腰に悪そうな使い方をしていたのです。

 

 

それでも今まで何ともなく使えてきてたので

油断していたのかもしれません。

 

 

実はその前日にもミシンを使いました。

特に問題もなく使えて、

そしていつものようにクローゼットにしまったのです。

 

ただ翌日、腰がちょっと重だるかったんです。

前日にミシン使ったからかな、と

気にはなったのですが

福岡に戻って来てからちょっと忙しかったし

特に気にしていませんでした。

それなのにまたミシンを使おうとしたからか・・。

 

ただ、今となっては

引き続きミシンを使う予定があったのに

なぜわざわざ律儀にしまってしまったんだろう。

とりあえず出しっぱなしにしておけばよかった。

と、後悔しきり、です。

 

重すぎる今のミシン、

何とか考えないといけないかな。

と、持ち上げられないミシンを前に考え込んでしまう・・・。

 

 

そう考えると、

昔の足踏みミシンって、場所はとるけどよかったんですね。

使い終わったら、ミシン本体を下側に倒して収納すれば

平坦な台になってスッキリするし。

 

電動よりも足踏みの方が力加減もしやすかったし。

 

 

 

それにしても、はぁ、この時期に痛恨の・・・。

まさに「痛い」状況を作ってしまった。

何をやってるんだろう、と悔やんでも遅し。

 

 

さっそく腰にサポーターを巻いて、

なるべく無理な姿勢をとらいないよう動いています。

「どうしたの? 腰?」と聞かれても正直に答えてます(恥)。

 

 

これで手持ちのサポーターは

肘用(テニス肘時)、膝用(水が溜まった時とか)、

手首用(腱鞘炎時)と、4つになってしまいました。

あとの3つのように、早く出番が終わってほしい。

 

 

 

ところで、9月に、

娘宅から電子ピアノを持ち帰りました。

 

コロナ禍でピアノを弾こうにもどこのお店も欠品だったらしく、

うちにある電子ピアノを運び入れたのですが、

部屋が手狭になってきたので

仕方なくピアノを手放すということで、

夫と二人で引き取りに行きました。

 

娘の夫君が車に運び込むのを手伝ってくれたのだけど、

娘のマンションはエレベーターがあるけど

うちのマンションにはなく、

しかも夫は「一人で大丈夫」と言う。

 

駐車場の車から運び出し

(鍵盤部分と脚部分はバラせます)

階段上がるの大丈夫かなと心配しましたが、

「ドアを開けといてくれたらいい」と言って、

結局夫は一人で運び入れました。

 

私はイス(バラせない)や下に敷いていたカーペット、

楽譜類やピアノやイスのカバーなどを運びました。

 

 

たぶんそういうことが原因で、

夫は翌々日から朝腰痛で起き上がるのに30分位かかり

腰を下ろすのも上げるのも難儀するようになりました。

幸い仕事に支障はありませんでしたが、

楽になるのに1カ月位かかったと言っていました。

(その頃には私は高松に帰っていて、

 夫の様子はわかりませんでしたが)

 

夫の場合は「ギクッ!」となったわけではないのですが、

電子ピアノの運搬で腰にかなりの負担がかかったのでしょう。

 

夫で1カ月か・・・。

私はどれくらいで楽になるのかな・・・?

 

ただでも寒い折、

皆様お気をつけくださいね。

 

【今日の曲】「ケ・サラ(Che sara)」 僕たちの人生は 平和と自由もとめて生きていけばいいのさ

 

こんにちは、トパーズです。

いつも読んでくださって、ありがとうございます。

 

 

 

母の入院で高松に帰る前、

大学では学祭の準備が始まり出すのを見て、

どうしてもこの歌が学祭とリンクしてしまうので、

いろいろ調べて

私のプライベート用のPCにメモしていました。

 

ですが高松への帰省時、

プライベート用PCを持って帰らなかったので

ブログにアップすることができませんでした。

 

 

このハテナブログの「下書き」には、

本当に下書き状態だったスピッツの歌詞解釈や

好きな歌の記事等が残っていたので

それらを加筆修正しながら

高松では何とかアップしていました。

 

 

福岡に戻り、プライベート用PCを開く頃には

もう学祭も終わっていましたが、

どうしても最後まで書いておきたいと思い、

加筆修正しながらアップすることにしました。

 

 

 

 

「ケ・サラ(Che sara)」 (1971年)

   歌:リッキ・エ・ポーヴェリ

     ホセ・フェリシアーノ

   作詞:フランコ・ミリアッチ

   作曲:ジミー・フォンタナ

      カルロ・ペス

 

 

1971年のサンレモ音楽祭で発表され、

2位に入賞したそうです。

カンツォーネをベースにしたポップスです。

 

「ケ・サラ」は、

「どうなるんだろう、まあ、

 なるようになるさ」という意味だそう。

 

 

元々の歌詞はイタリア語で、

特に目立った産業や資源もない

貧しい田舎町に生まれ育った若者が

懐かしい町や人々、恋人を捨ててもなお

退屈な町を出て、

当てもなく都会へ向かうという

故郷を後にする悲しみや不安、期待を歌ったもののようです。

 

だから題名も、「まあ、なるようになるさ」ということなんですね。

 

 

同じように国や故郷を後にする多くの若者の共感を呼び

ホセ・フェリシアーノは、

イタリア語をはじめスペイン語、英語バージョンもリリースして

とりわけ中南米の人々の心を打ったようです。

 

 

きっと、いつの時代・国・地域でも

同じように共感する人は多いのでしょうね。

 

 

 

ところが、私が最初に聴いたこの歌の歌詞は

前述の内容とはかなり違っています。

 

 

私の場合、大学の新歓行事で初めてこの歌を知りました。

学祭や事あるごとに歌われていて、

歌詞が書かれたガリ版印刷(死語?)のチラシを貰って

いつの間にか覚えて歌えるようになっていました。

 

 

特に学祭の季節になると思い出す歌です。

 

 

イメージ画像

 

 

今でも歌われているのでしょうか?

 

 

抑えきれない怒り こらえきれない悲しみ

そんなことの繰り返しだけど

決して負けはしないさ

 

ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ

僕たちの人生は

平和と自由もとめて 

生きてゆけばいいのさ (✳)

 

泣きはらした夜 迎える朝のまぶしさ

涙の乾く時はないけど

決して倒れはしないさ

 

(✳)繰り返し

 

いつも思い出すのさ 自由のために死を選んだ

グェン・バンチョイ ジョー・ヒル

ヴィクトル・ハラを

決して忘れはしないさ

 

(✳)繰り返し

 

広く高く大きく 明日に向かって力強く

人間の優しさを うたえ うたえ

うたえ うたえ うたえ

 

うたえ うたえ うたえ

人間の優しさを うたえ うたえ

明日に向かって力強く

広く高く大きく

 

(✳)繰り返し

      (訳詞:にしむらよしあき(西村義明))

 

 

あまり、

「まあ、なるようになるさ」って感じはないですよね。

 

この歌を、この歌詞で記憶している人は

どれくらいいるんでしょうか?

 

 

やがて社会人になってから、

これとも違う訳詞で歌われているものも聴くようになり、

いったいどの訳詞が本当なんだろうと、

今回調べてみるにいたったのです。

 

「これが正しい」という訳詞はない、

というところのようです。

 

 

 

この歌が日本に入ってきて

この日本語訳(にしむら訳)が付けられた頃には

学生運動はもう終焉を迎えてたのではないかと思い、

調べてみました。

 

訳詞を付けたにしむらさんは、

ベトナム戦争で最終的にアメリカが撤退し、

当時のベトナム反戦運動が勝利に湧く機運の中で

この歌のメロディーに乗せて

平和と自由を求める歌を歌いたいと思い

この訳詞を付けたそうです。

 

歌詞にある

グェン・バンチョイ

ジョー・ヒル

ヴィクトル・ハラ は、

実在していた人たちの名前です。

 

グェン・バンチョイは

南ベトナムの反政府活動家で、

アメリカの傀儡政権によって

公開処刑されています。

その愛国心や、最後まで毅然とした態度であったことから

英雄として、ベトナムのみならず

多くの人々の記憶にあるようです。

 

ジョー・ヒルは、

無実の罪で殺害された

シカゴの反体制労働者シンガー。

 

ヴィクトル・ハラも

チリの反体制シンガーで、

投獄後二度とギターを弾けないよう

両手首を切断されてもなお

周りの人々を勇気づけるため

歌を歌い続けたと言われています。

 

この3人は実在していたということは、

大学生当時には聞いていたけど、

今回改めて調べてみて驚きました。

想像を絶する、とても勇敢な人たちだったんですね。

 

 

私が大学生の頃の大学は

学生運動の殺伐とした雰囲気など微塵もなく、

反戦反核草の根運動などが平和的に謳われていて

そんな集会が行われているそばを

ただ横目で通り過ぎて、

時には友人と集会に参加したりもしていた私などは

いわゆる「ノンポリ(死語?)学生」だったでしょう。

 

平和や自由など当たり前にあるし、

現に自分たちは平和で自由じゃないか、

そしてそれらは永遠に続くものだと思っていました。

 

あれから数十年、

だからこそ、

それらを求めて血や涙を流した人々を忘れず

平和や自由を有難く思い、

それらが全ての人に永遠に続く術を

私たちなりに模索していかないといけませんね。

 

現に、今だに戦争は起きているのですから。

 

ウクライナガザ地区での惨劇は

記憶に新しいどころか

毎日のように報道されています。

 

人質が解放されたというニュースの後に

学校が襲撃され数十人が亡くなったという不条理を

無情にも淡々と聞かされます。

 

皆誰かの大切な家族や友人であるはずなのに。

本当は一人だって亡くなってはいけない命なのに。

 

 

人は皆、

平和に暮らしたいと思っているはずなのに、

争い事がなくならないのは

どうしてなんでしょうね。

 

 

ちょっと重苦しい話題になってしまいました。

 

 

 

この歌は他にも、岩谷時子訳で、

越路吹雪さんや岸洋子さん等が歌っています。

こちらの訳も、

人生を前向きにさせてくれる素敵な歌詞です。

 

 

 

剣山シュトーレン:『パパベル』(高松市多肥下町)

 

 

こんにちは、トパーズです。

いつも読んでくださって、ありがとうございます。

 

 

今年は11月にいち早く

シュトーレンを食べていたことを思い出しました。

 

 

高松の実家に帰省中、よく行っていたパン屋さん。

そこで見つけたシュトーレンです。

「剣山シュトーレン」と書かれていました。

 

剣山シュトーレン

 

 

スライスされた状態で販売されていました。

 

 

「剣山(つるぎさん)」は、徳島県にあり

愛媛県の「石鎚山(いしづちさん)」に次ぐ高峰です。

 

四国の高山を冠したネーミングに親しみが湧き、

購入しました。

 

 

その頃(11月)はまだシュトーレン自体は販売されてなくて、

スライスされたお試しサイズでした。

お試しがあるとありがたいですね。

 

 

しっとり柔らかめのパウンドケーキに近い食感で、

子供にも食べやすそうな、

クセの強くないタイプのように感じました。

 

 

このお店では、南側に広い庭に面して

イートインスペースがあります。

帰省するたびに何度も足を運んでいます。

 

無料のコーヒーがあって、

焼きたてのパンやサンドイッチを

父や母と味わった、いい思い出ばかりのお店です。

 

建物の右部分がイートインスペース。
庭に面したテーブルでもいただけます。

 

南側の庭

 

 

大好きな、分厚いトマトが入ったサンドイッチ。
トレーにのせてくれます。

 

 

イートインスペースは寛げます

 

 

また帰省した折はぜひ

両親とゆっくり腰をおろして

おいしいパンを頂きたいと思っています。

 

シュトーレン:『セ・トレボン』(福岡市中央区平尾)

 

 

こんにちは、トパーズです。

いつも読んでくださって、ありがとうございます。

 

 

今年も大好きなシュトーレンを買いました。

今回は『セ・トレボン』(福岡市中央区平尾)です。

 

 

 

 

福岡に越して来た頃からここのパンが好きで、

近くに行ったときは立ち寄り、

中で頂いたりもしています。

 

以前はコーヒーが無料で頂けたのですが

今は有料になっています。

 

お昼の時間には、

スープ(3種類から選べる)と

パン(2種類を選べる)のセットもあります。

 

 

これは9月に行った時のもの

 

 

 

そういうわけで、

ここのシュトーレンは今までに何回か購入しています。

 

安定のおいしさ。

私は大人っぽい味だと思っています。

 

 

 

置いた皿が大きすぎた・・・(直径約20センチ)

 

 

 

12月はとても忙しいので、

好きなもの、食べたいものを食べて

自分を労いつつ

発破をかけていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

母の入院のため実家に帰っていました。

 

 

こんにちは、トパーズです。

いつも読んでくださって、ありがとうございます。

 

 

9月に母が転んで骨折、入院したため

先月末まで高松の実家に帰っていました。

 

福岡に戻ったらイルミネーションが美しかった博多駅
photoAC

 

命に別状はないとのことで、

福岡での用事の段取りをつけしだい

急いで帰り、術前説明に何とか間に合いました。

 

 

「お父さんは家のことは何もできないから。」とか

「お父さんがお風呂で寝てるんじゃないか。」と

母がしきりに心配していたと看護師さんから聞き、

また、

「病院のランドリーサービスを利用しますか?」という電話を

まだ福岡にいる時に病院から受け、

(え、そんなレベル?)

と、父の何もできない有様に不安になりました。

病院での洗濯物がたまっていたのです。

 

 

私がいたら母も安心して入院していられるし、

退院してからのサポートもできるし

父も母も安心だろうと思って帰りました。

 

 

と、偉そうに書いていますが

母の手術が無事済んだと思ったら私がめまいでダウン。

老父に介抱してもらうというトホホなことに。

 

朝目が覚めたらめまいで起き上がれないということは

時々あるのですが

父に余計な心配をかけてしまって心苦しかったです。

 

 

そんな中でも、

介護申請をしたりケアマネージャーさんと打ち合わせをしたり

介護用品のレンタルや住宅改修の相談をしたりと、

普段しないようなことの連続や

年とった父との数十年ぶりの生活は

私にとって新鮮なことの連続でもありました。

 

今まで帰省しても長くて1週間くらいだったのが、

ほぼ2カ月も生活していたのは、初めてです。

正直に言うと、疲れました。

もっと手のかかる介護をしている人から笑われそうですが。

 

しかも入院中の母に「せん妄のような症状」が現れ、

私と父は言葉をなくしました。

この話は別の機会に書きます。

 

 

すっかり「実家サイクル」で日々の家事をこなし、

病院への洗濯物等の受け渡しや面会での往復、

空いた時間で高松ライフを満喫、

時々思い出したようにブログを書き、という生活。

 

 

しかし大変だったのは母が退院してからでした。

 

母は骨を傷めただけで持病もなく元気なので

家に帰ったとたん普通に動こうとします。

それまで病院で上げ膳据え膳で、

リハビリ以外はベッドでの生活だったので

本人も退屈だったのでしょうが、

疲れが出てまた転倒でもしたらと、ヒヤヒヤです。

 

入浴は介添えが要るにもかかわらず

自分でできると言って自分で入っている。

 

 

父も母も年をとってだんだん頑固になってきてるので

二人の不毛とも思えるやりとりを聞きながら

こっちまでイラっとなって

つい怒ってしまうことに。

 

あ、私も年とって頑固になってるんだと、

つい言い過ぎてしまったことを後で反省する毎日。

つい子供を叱ってしまい、後で反省していた昔の自分と

少しも変わってないやと気付いて、更に落ち込む毎日・・・

 

 

それでも何とか目途がついたので、

後ろ髪をひかれる思いで福岡に戻りましたが、

父も疲れてるんじゃないかとか、

母がまた無理をしてるんじゃないかとか、

心配が尽きません。

娘とはいえずっと離れて暮らしていた私に

父は父なりに気を遣ってくれてたと思います。

 

 

いつまでも福岡にいてはいけないんじゃないかとか

私が早く高松に住むようにしたほうがいいんじゃないかとか、

複雑な思いでマリンライナーに乗り込み、

でも新幹線が博多に着く頃にはもう

福岡での生活のことが頭を占めるようになり、

約2か月「高松の子」に戻っていた私は、

「福岡の人」となって博多駅に降り立ちました。

 

博多駅はクリスマスイルミネーションで綺麗でした。

汗だくで新幹線に飛び乗った日が嘘のような寒さ。

 

 

キンモクセイが満開だった頃

 

 

ツワブキの花が咲いた頃

 

 

カニシャボが蕾をつけた頃

 

 

サザンカの蕾も膨らんできた

 

 

2か月もの不在で各方面に多大な迷惑をかけ、

再び福岡での繁雑な日々が戻ってきました。

それでも夜中や明け方に目が覚めて、

ここが高松の家でないことに気付いたときの寂しさ。

 

大学で親元を離れてからこの年になった今でも

帰省の後はまだそんな寂しさに襲われます。

今回は長く高松にいたから

「福岡の人」に戻るにはもう少し時間がかかるかも。

 

 

 

 

 

 

Google フォトが教えてくれた「ららぽーとのガンダム」と「巨石パーク」

 

Googleフォトを開くと、

アシスタント機能で

自分でも忘れていた写真が出てきました。

 


「この日を覚えていますか」って。

 

 

 

昨年11月に行った「ららぽーと福岡」。

オープンの熱りが冷めた頃を見計らって行きましたが、

それでも人が多かったです。

 


正面の「ガンダム」。

「等身大」だそうですが、

「等身大」と言われてもピンとこない。

 

人がいない瞬間に撮ったばっかりに、比較対象がなくなってしまった。
迫力満点です。

 

 

 

 

同じく昨年11月に行った

佐賀の「巨石パーク」。

 

ストーンヘンジのような

大きな石が点在してる公園だと思っていたら、

とんでもない勘違い。

 

巨石ゴロゴロの山道をひたすら登ります。

 

 

駐車場のそばの休憩所で杖を借りて登りました。

木々のマイナスイオンを浴びながら

巨石の自然の神秘を堪能します。

 

またも比較対象がないですが、巨石です。

 

 

道の険しさから

断念して引き返す人もいるそう。

 

巨石に圧倒されながら

その魅力にはまり、

気がついたら下山していました。

 

ハードですが、

楽しかったです。

また挑戦したいと思っています。

 

少しも健脚でない私は

杖を返却した後、

車に乗る前に入念に足腰のストレッチをしました。

他の人たちが皆そうしていたからです。

そのお陰か、後日の筋肉痛は軽かったです。